新緑や紅葉の名所として知られる東福寺は、京都を代表する禅寺の一つです。 朝廷の最高実力者・九条道家の発願により、中国で禅を学んだ円爾(聖一国師) を開山に迎えて創建されました。
「東福寺」 の名は、奈良の東大寺と興福寺になぞらえて、その一字ずつをとったことに由来します。 中世の面影を色濃く留める巨大な建造物の数々は圧倒的なスケールを誇り、その特徴を表した 「東福寺の伽藍面」 の通称で知られています。 |
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【巡回展】 |
'2023 3_6 報道内覧会 特別展「東福寺」の会場内の風景です。 |
・No.102 重要文化財 《円爾像》 吉山明兆筆 一幅 紙本着色 縦 267.4 横 139.7(描表装を含む) 室町時代 15 世紀 東福寺 |
・No.102 《円爾像》 明兆が描いた巨大な円爾像。 日本の頂相(禅僧の肖像画)作例の中でも最大級の法量を誇るもので、払子(仏具)を執って曲彔(僧侶が使う椅子)に座す円爾の威容が堂々と表されている。 |
特別展 「東福寺」 報道内覧会 '2023 3_6 |
― 京都の大禅宗寺院、東福寺の圧倒的な仏教文物の魅力―
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~禅の真髄が宿る寺宝の数々、伝説の絵仏師・明兆の画力~ |
―展覧会概要説明会、「東福寺」カタログ、 PRESS RELEASE などからの抜粋文章です― |
「みどころ説明会」 高橋真作学芸研究員の概要説明。 圧倒的スケール・全てが規格外、東福寺の壮大な伽藍 |
第1章 東福寺の創建と円爾―円爾は、初期禅宗の発展を築いた立役者で、東福寺の開山、お寺を開いた鎌倉時代を代表する高僧です。 No.102 「円爾像」 は日本で最大級の大きさを誇る禅僧肖像画で、縦幅
267.4 cm、横幅 139.7 cm 、これを描いた画家が吉山明兆 「五百羅漢図」 を描いた絵仏師です。 今回は明兆をクローズアップして取り上げ、この展覧会を象徴する作品として
No.102 「円爾像」 を最初に展示しております。 さらに東福寺の伽藍の圧巻の建造物で有名な作例 「伽藍面」 として展示、また表装の 「描き表装」
にもご注目ください。 円爾は、密教など教学を収めて、中国に渡り中国の正統的な南宋時代の禅を学んで帰国する、中国での師事が無準師範です。 No.12
国宝 「無準師範像」 南宋肖像画の極致、南宋禅宗時代のトップ・スーパースターといっていい無準師範の宝物を受け継いで帰国し中国から日本の法脈継承がうかがえる、実はこの円爾に悟りを認める卒業証明書として無準師範から渡された記念品的な作例です。
円爾が亡くなる寸前、最後に書いた No.39 「遺偈」 もご注目したい。 |
第3章 伝説の絵仏師・明兆―明兆は江戸時代までは、かの雪舟と並び称された画家で、沢山の仏画を描いた絵仏師です。 明兆の代表作 No.101 「達磨・蝦蟇鉄拐図」 はデザイン性でも雪舟に大きな影響を与えた。 明兆における画風の編成も見どころになっている。 さらに明兆に初めての筆性の全貌を明かす 「五百羅漢図」 は南宋時代の一幅に 10 人もの羅漢を描いて全部で五十幅で完成した。 本展では、3 期に分けて展示替えを行いながら紹介します。 |
第4章 禅宗文化と海外交流―円爾は中国に渡って様々な文物を持ち帰った。 また円爾の弟子たちも様々な文物を持ち帰っております。 それも展示しております。 |
「展覧会の構成」 1 章~4 章 |
'2023 3_6 報道内覧会 「東福寺」 展の会場内展示風景と 「東福寺」 図録からの抜粋文章です。 |
第 1 章. 東福寺の創建と円爾 |
嘉禎元年(1235)、円爾(1202-80)は海を渡り、南宋禅宗界の重鎮である無準師範(1177-1249)に師事します。 帰国後は博多に承天寺を建立。 その後、九条道家の知遇を得て京都に巨刹、東福寺を開きました。 以来、寺は災厄に耐えて古文書や書跡、典籍、肖像画など 無準や円爾ゆかりの数々の宝物を守り継いできました。 それらは 13 世紀の東アジアの禅宗と日中交流の実情をうかがわせる、質量ともに類をみない文物群で、今日、東福寺を中世禅宗文化最大の殿堂たらしめています。 |
・No.8 重要文化財《度 牒》 2 幅 紙本木版・墨書 鎌倉時代 承久元年 (1219) 東福寺 / ・No.12 国宝 《無準師範像》 自賛 一幅 絹本着色 中国・南宋時代 嘉熙 2 年(1238) 東福寺 |
・No.8 《度 牒》 度 牒とは 「得度の牒(フダ)」 の意味で度縁とも称し、僧侶が得度(出家)したことを証明する公文書で身分証明書としての役割をもち、中国などに渡航する際には入国、滞在、移動などの手続きで必要とされた。 平安時代後期以降になると版木を用いて文様を表した蝋牋紙と呼ばれる装飾料紙を使い、本文を版刻するようになった。 東福寺には形式のことなる二種類の度牒が伝わり、円爾が入宋する前に作成されたものと考えられている。 / ・No.12 《無準師範像》 円爾の師である無準師範の頂相(チンソウ) 「禅宗祖師を表した肖像画」。 宋に留学していた円爾の求めに応じ、嘉熙 2 年 5 月、数えで 62 歳の無準師範が自ら賛を書いて、法脈継承の証しとして与えたもの。 「円爾遺物具足目録」(No.43) の 第ーに挙げられ、仁治 2 年(1241)の円爾請来品のなかでもとくに重要なものとして伝わってきた。 |
'2023 3_6 報道内覧会 「東福寺」 展の会場内展示風景と 「東福寺」 図録からの抜粋文章です。 |
第 3 章. 伝説の絵仏師・明兆 |
吉山明兆(1352-1431) は、東福寺を拠点に活躍した絵仏師です。 江戸時代までは雪舟とも並び称されるほどに高名な画人でした。 寺内で仏殿の荘厳などを行う殿司職を務めたことから、「兆殿司」 とも通称されます。 中国将来の仏画作品に学びながらも、冴えわたる水墨の技と鮮やかな極彩色とにより平明な画風を築き上げ、巨大な伽藍にふさわしい巨幅や連幅を数多く手掛けました。 本章では、東福寺および塔頭に伝蔵される明兆の代表作をご覧ください。 |
・No.101 重要文化財《達磨・蝦蟇鉄拐図》 吉山明兆筆 3 幅 紙本着色 [達磨]縦 265.8 横 151.2 (描表装を含む) [蝦蟇・鉄拐] 各 縦 268.7 横 117.9(描表装を含む) 室町時代 15 世紀 東福寺 |
・No.101 《達磨・蝦蟇鉄拐図》 明兆画として最も著名なものの一つ。 達磨図には東陽珠堅(東福寺第 103 世) による応永 25 年(1418)銘のある軸箱が添う。 蝦蟇鉄拐図にも同仕様の中世の箱が添うが、蓋表に 「頂相脇幅」 とあり、もとは達磨図ではなく 「円爾像」(No.102) の左右幅であったと知られる。 |
'2023 3_6 報道内覧会 「東福寺」 展の会場内展示風景と 「東福寺」 図録からの抜粋文章です。 |
臨済宗東福寺派大本山 東福寺 |
京都東山の南麓に大きく伽藍を広げる東福寺は、朝廷の最高の実力者九条道家の発願により、中国で禅を学んだ円爾(聖一国師)を開山に迎えて創建されました。
「東福寺」の名は、奈良の東大寺と興福寺になぞらえて、その一字ずつをとったことに由来します。 「東福寺の伽藍面」の通称で知られる圧巻の建造物群をはじめ、新緑や紅葉など四季折々の美しさで名高く、今も国内外から多くの参詣者を集めています。 『東京ドーム
5 ヶ分の大伽藍/2000 本を超える秋の紅葉』 |
東福寺は摂政九条道家が、「洪基を東大に亜(ツ)ぎ、盛業を興福に取る」 として、おおいなる事業の基礎を東大寺に、繫栄の様を興福寺に求めて「東」「福」の字をとって建立された禅宗寺院である。
創建当初東福寺は禅寺らしく仏殿、法堂、三門(山門)、方丈、庫裏、禅堂、東司、浴司 など中国宋風の七堂伽藍を備えて、大日像以下の五智如来を安置する五重塔や、両界曼荼羅や真言八祖像を祀る灌頂堂を備えていた
(ただしこれらの建物は道家没後に完成したものもある)。 このほか阿弥陀如来像を祀る天台系の最勝金剛院、密教系の円堂や観音像を祀る普門院などがその周囲に建ち並び、さらに経蔵には宋版一切経二蔵と九条家の秘書類、二字の宝蔵のうちの一字には密教聖教類と宝物、もう一字には顕教聖教類と俗書が納められていた。
この様に創建期の東福寺は奈良・平安時代以来の顕密仏教に加えて鎌倉時代に将来された禅宗という三宗を総合する他に例を見ない壮大な寺院であり、この様な宗教構想をもって建立された大規模な寺院の出現はまさに空前でありかつ絶後であった。 |
円爾 は建仁二年(1202)、駿河国安倍郡(静岡県静岡市) に生まれた。 この年の正月十三日に母は明星が胎中に入るのを感じ、ある日久能山の堯弁大徳にそのことを告げて大弁才天を守護神に頂き、その年の十月に円爾が生まれたという。 その生家の跡には現在も子孫が暮らしている。 二歳の頃より人の話す言語の是非をわきまえ、人の顔色を見るだけでその人の憂喜が分かったという。 五歳の時に母の言いつけでその頃園城寺(三井寺)末の天台宗寺院となっていた久能山久能寺の堯弁に師事して俱舎論・天台など天台教学を学んだ後、承久元年(1219)、18 歳で智証大師(円珍) の遺跡を慕って 三井寺に入り剃髪得度し、ここに円爾は最初園城寺派の天台密教僧として出発することになる。 この年の十二月円爾は南都東大寺戒壇院で受戒して正式の僧侶となった。 二十代の円爾は園城寺で密教を学びつつも長楽寺の栄朝(1165~1247)の門下に入り禅学や顕密二宗を学ぶ、禅蜜兼学の学修生活を送る。 32 歳になって禅宗の奥義を修得するため入宋を決め故郷の母に別れを告げ、 嘉禎元年(1235) 五月、肥前平戸から入宋を果たす。 明州に到着した円爾は天童山を初め中国禅宗五山寺院を巡錫して径山に登り無準師範のもとで、中国禅宗の日本弘通を担う一番弟子として六年の薫陶を受けた。 淳祐二年(1242)、帰国することになった円爾は無準より宗派図や法衣、竹杖、額字などを贈られている。 これらとともに円爾は中国での勉学のために経典・禅籍・語録・儒書等実に多くの書物を持ち帰っており、東福寺に伝来している。 |
画望・明兆 中世日本に画聖と称すべき二人の僧侶がいた。 一人は日本水墨画の大成者とされる雪舟等楊(1420~1506?)であり、もう一人は水墨画の先駆者とされる兆殿司と呼ばれる吉山明兆である。 明兆は文和元年(1352) に淡路島洲本に生まれ、幼少より図画を好み、東福寺派の僧侶で同郷の大道一以(1292~1370) の弟子となり、一以に伴われて入洛し東福寺南明院に止住することになった。 東福寺では仏画工房を任されたらしく、何人かの弟子たちと東福寺の伽藍荘厳や仏教行事に用いられる 禅宗仏画や仏祖像、円爾をはじめとする東福寺歴代の肖像画をじつに数多く描いている。 |
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参考資料:報道内覧会「東福寺」カタログ、 PRESS RELEASE、学芸・研究員の概要説明会、チラシ他。 |
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